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「天使の分け前」(後編)
数日後、いぬ子から電話があった。二人の一番お気に入りの写真(遊園地で撮ったポラロイドなので1枚しかない)を俺が持っているのだが、そのまま俺がもらってもいいかという留守電を入れた返事だ。離婚する夫婦が子供を引き取る話し合いみたいだと思った。俺を想ってくれるなら、呼び方なんて「恋人」でも「友達」でも構いやしない。けれど今の俺にはいぬ子の想いが無くなったとしか思えなかった。 俺は恋人同士が会えない理由として「忙しい」は通用しないと思う。恋なんて元々非日常のものなのだ。俺は夜中にポケベルに入った「会いたいの、今すぐきて」のメッセージに、生駒から終電でいぬ子の下宿まで行ったことがある(約二時間)。俺はそれくらい平気で出来る。俺は「やらねばならぬ事が忙しい」といういぬ子に尋ねた。「前ほど会いたいと思ってないやろ?」いぬ子は泣きはじめていた。電話代が心配になるほどの沈黙の後、いぬ子はその事実を認めた。空気が薄くなって、息が詰まるような気がした。 いぬ子の中で、俺は恋人ではなく、ある種の「支え」的なもの、父親的なものに変化してきたらしい。決して俺を嫌いになったりした訳ではない、という内容のことをゆっくりと、言葉を選んで話してくれた。俺が聞きたかったのはまさにそこだった。 いぬ子の言う「友達」は決して覚悟の無さからきたものではなかった。明確に「自分のために俺と別れる」意志が感じられた。ここで俺は初めて気が付いたんである。 「俺が友達になれないのと同じように、いぬ子も俺とやり直せないんだ・・・」 認めたくはなかったが紛れもない事実だった。 恋愛の非日常性に関連するが、「恋愛関係がどれだけ持続するか」について論じるのは無意味である。なぜなら恋愛の本質は「きらきら」だからである。「きらきら」とは恋愛中に誰もが体験する一種の感覚のことだと思って頂きたい。あたかもLSDでラリっているヒッピーのように、目に映るすべての風景が光り輝いて見え、何だか世の中ってスバラシーと感じてしまうアレである。「きらきら」の光がなければ恋人と一緒に映画を見たところで映画館の暗闇の中、隣に座っている人間はどこの誰かわからないおっさんと区別が付かない。どれだけ同じ時間を過ごそうともお互い単なるエキストラだ。俺の彼女になりたい人、まだなっていない人(おい!)はそこを理解しておくように。 この世にたった一人ずつしかいない二人が偶然出会って、どういう訳か恋に落ちる。そしてどこかの夜で唇と唇の間に無限大の「きらきら」を挟んではじめてキスをする。本質論で語ると、「恋愛」とはこの一瞬で完結しているのかもしれない。後はただの日常に過ぎない。だが人はその「きらきら」の光を頼りに真っ暗な中を明日まで生きてゆけるんだと思う。PSY・Sの「TOYHOLIC」という曲に「最初のキスを許しながら、急加速でさよならがはじまる」という一節がるが、まさに恋愛の本質を言い表していると思う。「ナベケン、似合わんよ」と笑われるだろうが、外見に反して俺はこんなことを考えているのである。俺の彼女になりたい人は・・・・ってもうええっちゅーの! いぬ子は俺の中で「悪者」になってしまうのが耐えられないと言う。俺だってここまで分かり合えた大好きないぬ子を悪者にして終わりたくなんかない。だが今の状態でいぬ子と「友達」になっても、いぬ子の気が変わるのを待つとしても、また喧嘩をしていぬ子を悪者にしてしまう。いぬ子の方ももう恋人には戻れない。絶交してもいぬ子を悪者にしてしまう。俺はウムムと考え一つの提案をした。「いぬ子、俺達が今友達になっても、やり直しても、絶交しても結局はおんなじだと思う。時間を置こう。俺がいぬ子と『友達』になれる思った時、必ず連絡する。いぬ子も俺とやり直す気になったら連絡をくれ。そしてお互い好きな人が出来たときも連絡すること、そう約束しよう。これならいぬ子も悪者じゃないよ」 実際この時俺は泣いてしまっていて「いぬ子おっ!ひぐっ、いっ今まで、っ ぐうあ楽しかったよなあっんがんぐっ」とまるで次回の予告をするサザエさん(昔のやつね)みたいな状態になっていた。いぬ子も泣いていた。「これは俺が彼氏として出来る最後の優しさだ」「私の前ではカッコ付けなくていいって言ったでしょ!」・・・そしてお互いに「また逢えたらいいね」と言い合って電話を切った。これでもう俺といぬ子は恋人ではないのだ。しかし、不思議と悲しくはなかった。映画みたいだが本当にこんな科白が出た。今後、多分お互い違う人を好きになってしまうだろう。でもそうなったときにはじめて「友達」になれそうな気がする。それでも、また会えたらいい。 いぬ子以前の7回の失恋は、相手の女の子を「悪者」にしていたから、言わば途中で投げ出していたから俺の中でいつまでも残っていた。今回本当の意味で「最後」が来てしまったのだ。いぬ子という女性は物理的に存在しても、本質はまったく違った人間であること。つまり俺以外の誰かを愛し始めることを認めなくてはならんのである。これは「悪者」にするよりはるかにしんどい事だ。誰でも知っているこんなことに俺はようやく気づいた。今、そのことの大きさ、遠さ、とり返しのつかなさにおびえている。ナベケンを憎んでる諸君、今俺は弱っている。叩くなら今だ! けれど、こんな結果を迎えたからこそ、「いぬ子を強くしたげよう」という約束は完全に果たされたのだと思う。一番教えたかった「人を傷付ける覚悟」を、俺と別れることで証明したのが皮肉なのだけれど。 「天使の分け前」という言葉がある。ウィスキーかスコッチだか忘れたが、その類の酒を造るとき、原料を樽に入れて数年熟成させる。熟成したとき樽が水分を吸って中身が少し減っているのだそうだ。これを先人たちは「天使が酒を美味くする奇跡を授けてくれる代わりに、自分の分け前をもらうのだ」と言った。本当に美味い酒を造るためには「天使の分け前」を惜しんではいけない。俺はいぬ子の犠牲になったつもりも、恩を着せるつもりも無い。「自分には人と違う才能がある」なんて言いながら何もできちゃいないポンポコピーな俺が、こんなに偉い女の子の「精神的自立」のお手伝いが出来たのである。俺はいぬ子が自立する ための「天使の分け前」だったのだと信じたい。娘を育てるオヤジ達の気持ちって、こんなものなのかもしれないよな。まったく、男ってやっかいな生き物 だ。 それでも…「いぬ子!また逢えたらいいね」(了) |